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御花と柳川の街の発展に生涯をささげた会長 立花寛茂のあゆみ

旧柳川藩主立花家 立花和雄・文子の次男として生を受け、生涯を通して愛する柳川と向き合い続けてきた、御花の代表取締役会長 立花寛茂は令和8年1月13日に永眠いたしました。

御花の文化財の保存と活用、継承、発展に尽力するとともに、当時の柳川地域においては珍しかったホテル棟を建設し、宿泊・婚礼・文化事業を通じて、地域文化の発信拠点として御花を盛り立ててまいりました。また、商工会議所や観光振興、教育、奉仕活動など多岐にわたる分野で要職を担い、柳川という街の価値向上、そして次代へとつなぐ礎を築いてまいりました。

これまで支えてくださった皆様への感謝の想いとともに、立花寛茂のあゆみを紹介いたします。



1940年(昭和15年)7月5日生 

旧柳川藩主立花家16代 立花和雄・文子の次男として生まれる

下記は1930~1937年あたりの写真ですが、当時の御花はこのように、西洋館・大広間・御居間・お子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

幼少期〜学生時代

城内小学校・柳城中学校・伝習館高校を卒業。人々が集い、語らい、食を共にする場としての料亭旅館へと転身した御花を自然と好むようになる。中学時代には、強制ではなく、「御花は自分が支えていくものになるのかもしれない」と、漠然と将来を思い描くようになる。

※スタッフに語り継がれているエピソードの一つが、この中学校の運動会の騎馬戦に立花家に伝わるお殿様の甲冑(本物)を着て出ていたこと。(写真参照)

成城大学経済学部卒業 (1959年4月〜1963年3月):テニス部に所属

修行への道

16代当主・立花和雄は、料亭旅館業に苦悩しながらも、御花が柳川にとって不可欠な歴史的・文化遺産であると確信。寛茂を外の世界へ修行に出すことを決意。

鬼怒川温泉ホテルに入社・修行(1963年〜1967年)

鬼怒川温泉ホテル入社(初代社長 金谷鮮治)この頃、日本は日本人が旅行に出る「団体旅行全盛期」の始まりを迎えていた。日光を観光し、鬼怒川温泉に宿泊するという明確な観光ルートが確立され、鬼怒川は多くの観光客で賑わう、観光の最先進地であった。寛茂は、観光の最前線にあるこのホテルで働きながら、宿泊業の現場、団体対応、運営の実際を体で学ぶ。

東京・金谷事務所での経験

鬼怒川温泉ホテルでの経験を経て、東京にて金谷鮮治社長の秘書を務める。
1969年 系列レストラン、当時赤坂にあった 「ボンジュール」 の立ち上げ計画段階から携わり、経営を学ぶ。1971年 西麻布に、「ジョン金谷」開業を学ぶ。

鬼怒川温泉ホテル在籍中に妻と出会う

妻(幸枝)との出会い。妹(万紗子)の同級生であり「兄が修行しているホテルに遊びに行こう」と訪れたことがきっかけでの出会いであった。後、1968年(昭和43年)に結婚。

丸5年間の修行を終え、御花へ戻る 1967年(昭和42年)

自ら電話番を務め、顧客の声を直接聞くことから改善を始める

株式会社 御花 設立 1971年(昭和46年)

大名家・伯爵家時代の建物・調度品を活かしながらも、観光ブームに乗り遅れぬよう設備投資を本格化

家政局を改装し、洋食屋(一番館)をオープン 1971年(昭和46年)

家政局とは、伯爵立花家の財産管理を担っていた家政機関の建物。東宮御所を設計した建築家 谷口吉郎から「この建物の構造は面白い」と評価されたことをきっかけに、この建築を活かす新たな活用を模索。料亭業・郷土料理中心だった御花に、地元の人も観光客も気軽に食事を楽しめる場をつくることを決意。この際、外観は一度白く塗り替えられるが、骨組みを変えなかったことで、後に文化財として生き残る。

洋食への挑戦 

立花家は伯爵家時代、迎賓館としての西洋館で洋食のもてなしを行い、農業振興の一環として西洋野菜の研究・調理にも取り組んでいた。しかし商売としての料亭業では、洋食を担う人材が不足していたため、長崎の老舗洋食店 「銀嶺(1930年創業)」 にスタッフを修行に出す。銀嶺は、作家・俳優・芸術家、地元財界人に愛された名店であり、その精神と技術が一番館に受け継がれる。

一番館の名物と逸話 (1970年代)

名物は カツカレー
作家・五木寛之が御花に滞在中、週刊誌で「カツカレーの春」と題して絶賛した逸話が残る。一番館2階焼肉店として営業16代和雄が通っていた久留米の名店を参考に、柳川でも焼肉を楽しめる場を作った。

一番館

御花の焼肉店

観光地・柳川の誕生(元来観光地ではなかった柳川が、観光地として歩み始める。)

1974年(昭和49年)年間観光客数 10万人突破

DISCOVER JAPAN キャンペーン 掲載(新幹線 博多駅開業)1978年

1970年開始の国鉄キャンペーンにより、個人旅行・女性旅行者が増加。
1978年(昭和53年)11月4日「いい日旅立ち DISCOVER JAPAN 2」「ひかりは西へ」
柳川が観光地として選ばれ、立花家が家族揃って出演するポスターが全国展開
現在、史料館に展示されている江戸時代のお雛様がお舟に乗ったビジュアルで使用された。

年間観光客数 20万人突破 1981年

代表取締役社長 就任 1983年〜

旅行代理店との本格連携 1980年代

高速道路整備と団体旅行ブームを背景に、柳川が団体旅行の行き先として選ばれる流れを捉えやがて大型バスが何台も並ぶほどの賑わいを生む。

ホテル棟「松濤館」オープン 1984年(昭和59年)3月1日

結婚式のデラックス化、宿泊客増加に対応するため、御花史上最大規模の拡張事業を実施。

文化財の未来を描くため、あえて一部を取り壊す決断を下し、14代が築いた屋敷の一部を手放すという大きな葛藤を抱えながらも、未来を選択。御花の黄金時代を作った。

年間観光客数 30万人突破 1985年(昭和60年)

平成2年(1990年)に描いていた未来の柳川と御花

白秋先生の詩情を体験できる川下りは大切に守っていかねばならない。しかしそれだけでは物足りない。川下りコースの外側の外堀沿いにこれまでとは別の世界を出現させたい、と考える。魚料理を食べさせるしゃれたレストラン、カフェテラス、あるいはブティックがあってもいい。堀には珍しい舟が浮かんでいる。水上タクシーもある。今の川下りは一方通行になっている。つまり、終点から起点に戻る魅力あるコースがない。その帰路コースとして、外堀沿いに新しい魅力に満ちた町並ができれば、一方通行の柳川観光に回遊性が生まれる。水郷に加え、「リバーサイドタウン」で柳川の魅力は倍加されるであろう。そこからは市民と観光客の楽しい語らいが聞こえ、明るい笑い声が流れてくる。それが私の描く「水の構図」だ。柳川の街づくりの一角に、「御花」が役に立ちたい。長い歴史の、「殿様屋敷」であった「御花」は、柳川であって特殊な空間である。そこに入れば、歴史を感じ、伝統に触れることができる。そんな歴史的・文化的空間を演出したい。「殿の倉」を活用すればできるのではないだろうか。観光といえば、地元の人の犠牲の上に成り立っているところがよく見受けられる。しかし、それは間違っている。地元の人も「よかった」と喜んで、観光客もまた満足して帰る、そんな観光を目指すべきである。

立花寛茂 メッセージ

私のモットーは「何事も明るく真面目に元気良く」を楽しんでやるです。

私の人生振り返ってみますとJC ・PTA ・観光協会・観光活性化協議会・伝習館同窓会・柳川商工会議所・ロータリークラブ・有明カントリークラブ、はたまた琴奨菊後援会など数多くの組織に携わらせて頂きましたが、皆様に喜んで頂いた事や何かお役に立ったという記憶は何一つも出てきません。逆に皆様に励まして頂いた、支えて頂いた、助けて頂いた思い出は数限り無くでてきます。

何か一つでも出来たとすればわたしは只「あれやろう、こんなことやってみたい」と言うだけでやって下さったのは全てまわりの方々です。
まさに感謝感謝沢山の「ありがとう、ありがとう」連続の人生でした。「あ・り・が・と・う」の数は「し・あ・わ・せ」の数です。

「御花」ですが存在すること自体が地域のお役に立つという思いだけで皆様のお支えのもと、戦後80数年なんとかのこしてくることができましたがこれからもお力添えのほどなにとぞ宜しくお願い申し上げます。

最後になりましたが柳川地方の更なる発展と皆様方の益々のご健勝ご多幸を祈念してお礼の挨拶とさせて頂きます。
長い間本当にありがとうございました。